「福丼は一日にしてならず」
「福井の丼は雅だ」
「福井の丼は豪快だ」
「福井の丼はどこか懐かしい」
そんな評判がとびかう福井の丼。
「なぜ、福井県の丼はそんなにも魅力的なのだろう?」
その疑問の答えを探しに、
私たちは歴史を紐解く。
すると福井県には、
素晴らしい英雄たちがいた。
足跡があった。
だから、福井県が誇る偉人たちのエッセンスが、
丼には詰まっている。
そう。
福丼県は、
本当はずっと昔から始まっていたのだ。
福丼県への歩み。実は、遥か古代へと遡る。ドンと言えばイグアノドン(?)。きっと誰もが恐竜を思い出す。事実、福井は恐竜王国だ。弱肉強食、喰うか喰われるか。そう、後の世の福井において発展した丼欲な丼文化の礎は、実は恐竜たちがさきがけだったのだ。そう、福井県が福丼県をはじめたのは、古代からの宿命であったのだ。
華やかな京が似合う、平安時代の女流文学者・紫式部。彼女が生涯で唯一京を離れて住んだことがあるのが、越前と言われている。紫式部が父の赴任とともに移り住んだこの地で、何を想ったのか。それは定かではないが、たった一つ分かっていることがある。そう、この地の丼には「雅」な香りが詰まっている。それは元を辿れば、紫式部のもたらしたものなのだ。多分。
古刹・永平寺は、『正法眼蔵』を著した道元禅師によって開かれた。悟りに向かって今日の認識を超えていく禅の道。そんな道元禅師の探求は食にも及び、食の教え『典座教訓』を著した。同書を通して道元禅師は教えてくれる。食材への敬意や、食べる人への思いやり。食を通して人はかくも成長できるのだ。そう、道元禅師の教えあればこそ、福井の丼は「心」も大盛りになったのである。
「福井で丼を食べたら、なぜか勇気が湧いた」。そんな声が多い。そう、福井の丼には勇気が詰まっている。越前の国・北の庄城(現福井市)の城下町を整備し、今の福井の礎を築いたと言われる柴田勝家。織田信長の猛将・鬼柴田として名を馳せた。織田信長の一番槍にして、福井発展に尽力した彼の魂が、福井県の丼にはいつも大盛りだ。食べれば勇気100倍。間違いない。
福井県には、杉田玄白に由来する名を持つ病院も存在する。オランダの医学書を翻訳した『解体新書』で有名なあの杉田玄白だ。オランダ語の難しさに一時は諦めかけた翻訳を約四年かけて完遂。日本医学の発展に寄与した。これも医師として使命感や探究心に他ならない。福井県民らしい勤勉さと実直さに裏打ちされた「探究心」。それこそ玄白が福丼に注ぎ込んだエッセンスだ。
「龍馬、海軍塾を作るために松平春嶽と交渉してくれ」。幕府軍艦奉行並勝海舟の頼みを受けた坂本龍馬は、勝と親しい越前福井藩主松平春嶽のもとへと出向いた。海軍学校の資金、無論並の資金ではない。しかし、「これからは世界が相手だ。船がいる」と話を聞いた松平春嶽、5千両(約11億円)の用立てを即決。このとき春嶽36歳。福井の丼に宿る豪快さは、春嶽の豪胆な魂を継承している証だ。
第二次大戦中、本国からの命令に背き、戦火を逃れるためにユダヤ人にビザを発行し続けた杉原千畝。以外と知られていないのは、彼の発行したビザによって逃れてきたユダヤ難民たちは、福井県敦賀港に上陸したのだ。杉原千畝自身は、福井県生まれではない。しかし、敦賀港は彼の持つ人類愛に呼応し、歴史に刻まれた。ゆえに福井の丼には、杉原千畝のエッセンス、人類愛が大盛りだ。
美味しく、豊穣なる丼には、
欠かせない要素があった。
美しく盛り立てる雅さ。
食す人へのおもてなし。
常に新しさに挑戦する勇ましさ。
どこまでも極めんとする追求する探究心。
失敗を恐れない豪胆さ。
そして、人を愛する気持ち……。
そんな丼に大切なこと。
そのすべてが、
福井の歴史に刻まれていたのである。